2009年07月04日

中国での紙の発明と改良

世界最古の紙は現在、中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土したものだとされている。この紙は、前漢時代の地図が書かれており、紀元前150年頃のものだと推定される。次いで古いのは、紀元前140年?87年頃のものとされる灞橋麻紙(はきょうまし)である。灞橋麻紙は陝西省西安市灞橋鎮で出土した。

史書に残された記録では『後漢書』で、105年に蔡倫が樹皮やアサのぼろから紙を作り、和帝に献上したという内容の記述がある。こうした記述から、紙の発明者は蔡倫だとされたこともあった。現在では、蔡倫は紙の改良者であるといわれることが多い。
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紙は軽くかさばらないので、記録用媒体として、従来の木簡や竹簡、絹布にかわって普及した。

西晋の時代(3世紀)には、左思の『三都賦』を写すために紙の価格が高騰したという記録が『晋書』に記載されており、「洛陽の紙価を高からしむ」という故事成語になっている。

紙はその後も改良され、唐時代(8世紀)には樹皮を主原料とした紙や、竹や藁を原料として混ぜた紙が作られるようになった。宋や明の時代(10世紀以降)には、出版が盛んとなったため大量の紙が必要となり、竹紙が盛んに作られた。明末の1637年に刊行された『天工開物』には、製紙の項目で、竹紙と樹皮を原料とした紙の製法を取り上げている。

2009年06月14日

フラックスシード・パウダー

日本は厚生労働省のシアン含有量の規制値、1ppm(ppmは百万分の1)以下と定められているので、これを避ける為、日本ではアマニ油が多く製造、販売されている。 また、亜麻の種やパウダーも販売されているが、シアンの規制値をクリアする為に、熱処理されているので、亜麻が本来持っている多くの栄養素は殆ど失ってしまっている。 また、亜麻の種をそのまま食べても亜麻の栄養素は体内に吸収されずに、排出されるだけである。 これは、種の外皮が消化を妨げる自然のシステムなので、種を発芽させて栄養素を増やし、パウダーにしたものが室温での長期保管も可能になった。 (昨年、カナダの会社が、特殊技術により栄養素を残したまま日本の規制値以下にする事に成功している)。 亜麻は繊維質を多く含んでいるので、パウダーを食べた方が好ましい。
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亜麻色 [編集]
アマの繊維の色。「亜麻色の髪」等、金髪などの形容に用いられる。ただし、辞書によれば「黄みを帯びた茶色」、色の16進法表記によれば下のような色(左は「亜麻色」。右は「エクルベージュ」で、これも「亜麻色」とされる)であり、金髪の色とは少しイメージが異なる。金髪ではなく栗毛の形容に用いられることもある。

2009年05月29日

常陸水戸城主54万石の大大名であった

佐竹義宣は三成と親交が深く、上杉景勝と連携して会津征伐に向かう徳川軍を挟撃するという密約を結んでいたといわれる。だが父・佐竹義重や弟で芦名氏を継いだ芦名盛重、重臣筆頭である佐竹義久が「東軍に与すべし」と主張し義宣の西軍加担に強硬に反対した。隠居していたとはいえ一代で佐竹氏を北関東・仙道筋の一大勢力に成長させた義重の発言は当主である義宣も無視できず、自身の三成との親交の板ばさみとなり曖昧な態度に終始した。すなわち配下の武将を中山道進軍中の秀忠隊に派遣し、従軍させたのである。配下の多賀谷重経や、小勢力の山川朝信、相馬義胤、岩城貞隆は景勝に通じていたが、これには結城氏一族で結城秀康の家督相続によって浪人となった結城朝勝の動きが背後にあった。

関ヶ原に進出途上だった毛利勢らが、道中にあった安濃津城など伊勢の諸城を攻め立てた。安濃津城の富田信高は降伏・出家、松坂城の古田重勝は和睦で時間稼ぎしつつ持ちこたえた。桑名城の氏家行広・氏家行継兄弟は当初中立を宣言していたが西軍の圧力に押されて西軍に加担した。その後西軍は福島正頼(正則の弟)が籠もる長島城を攻略しようとしたが、東軍が清洲城に集結したとの報に接し美濃方面へ転進している。
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関ヶ原での本戦が東軍の大勝利で終わったその日、家康は首実検の後大谷吉継の陣があった山中村へ陣を移し、休養を取った。明くる9月16日には裏切り組である小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱、赤座吉家、小川祐忠に三成の本拠である佐和山城攻略の先鋒を命じ、これに近江方面の地理に明るい田中吉政のほか軍監として井伊直政が加わり、1万5,000の大軍を以って近江鳥居本へ進軍。家康は平田山に陣を構えて攻撃を命じた。佐和山城には三成の兄である石田正澄を主将に父・石田正継や三成嫡男・石田重家ら2,800の兵が守備していたが、5倍もの兵力差に加えて御家安泰のために軍功を挙げねばならない秀秋らの攻撃は激しく、9月17日に始まった戦闘は翌18日早朝に田中吉政隊が天守閣に攻め入り落城。正澄ら三成の一族は自刃して滅んだ。重家や赤松則英は捕らえられ、則英は後に切腹を命じられたが重家は助命され京都妙心寺へ出家させられた。

2009年04月25日

古アッシリア時代

紀元前2000年紀に入ると、アッシリア史が具体的に姿を現し始める。この時代のアッシュールは、まだ都市国家の一つに過ぎなかったが、アッシリア商人は交易活動を広く行い交易先の各地の都市に隣接して商業植民市カールム(港湾区)を作ったことで知られる。またその他にも、ワバラトゥムと呼ばれる居留区を作り、北メソポタミア一帯をその商圏とした。

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国家制度の点では、アッシュル市が極めて重要な意味を持った。この頃には既にアッシュルの神格化は完全に進んでおり、この都市名を記述する時には神を意味する限定詞ディンギルが付された他、地名を意味する限定詞キが付された場合や、限定詞無しの場合でも、同じようにアッシュル神を指した。そして、アッシュル市ではアールムと呼ばれる市民会の決定が重要視され、その決定は遠くアナトリア半島などの商業拠点にも伝えられていたが、そのアールムの議長を務める役職として、リンム職がエリシュム1世によって初めて設けられ、アッシリア政治制度の根幹が完成された。

この時代のアッシリア王は、その称号としてアッシュルの副王を名乗っており、神格化された国土アッシュルと人間との関係を祭礼によって仲介することで市の繁栄を保障する役割を負った。また王は同時に商人達の統率者であり、監督官(ワクルム、新アッシリア時代にはウクル)と言う称号を用いて司法権を行使し商業上のトラブルを治めた。

政治史的には、紀元前1813年にアッシリアを征服して王となったアムル人、シャムシ・アダド1世の存在が極めて重要である。彼はアッシリアにシュバト・エンリル市を築き、そこを拠点にオリエント最大の王国を築きあげたほか、バビロニア風の王権概念を持ち込んで自らを「世界の王」と称した。またアッシリア王名表が初めて編纂され、その王統譜が整理された。だが、彼の後継者達はその巨大な王国を維持することが出来ず、王の称号もアッシュルの副王に戻り、世界の王を称する者は古アッシリア時代を通じて現れなかった。紀元前1750年頃以降の時代は、文献史料も見つかっておらず、中アッシリア時代に入るまでの歴史は殆ど明らかになっていない。アナトリア諸都市に設けられたカールムなどの商業拠点もヒッタイトの台頭によって破壊されたと考えられており、この時代の終わりとともに戦火によって廃絶している。

アッシリア商人達にとって取り分け重要だったのはロバを用いたバビロニアとアナトリアの間の中継貿易であり、その拠点として作られたカールムの一つカネシュ(現キュルテペ)からは、当時のアッシリア商人達が残した商業文書が多数発見されている。アッシリア商人は、バビロニア産のヒツジの毛織物や、ザグロス・バクトリアの錫をアナトリアで売買して利潤を得た。ことに青銅器の急激な普及によって、その製造に必要な錫の需要が高まっていたことは、アッシリア商人が躍進した原因の一つである。アッシリア商人の活躍したアナトリアでは銅鉱石は産するが、錫の鉱床を欠いていたのである。そしてこの交易ネットワークは高度に整備されており、商人の分業も進んでいた。アッシリア商人達は、各都市に常駐する情報収集者を通して、為替相場(金、銀、錫などの交換レート)情報に気を配り、個人投資家から委託される形での資本運用さえ行っていた。ナルックム(袋の意)と呼ばれる長期の資本運用契約に関する文書史料が残存している。またこういったアッシリア商人達は、諸外国や、別の商人との間で商業契約を多数結んで自らの利益を確保しようとした。

2009年04月08日

フリー・ジャズ

フリー・ジャズ(英:free jazz)は、ジャズの(演奏形態及び奏法についての)表現総称のひとつ。

1960年代以降に発生した、いかなる西洋音楽の理論や様式に従わないといった、一連のジャズの総称。 当初、主にアメリカ西海岸でウエストコースト・ジャズとして実験的に行われていたものだが、 オーネット・コールマンが、東海岸(イーストコースト)に紹介し、一般化したといわれている。 オーネット・コールマン以前にはセシル・テイラーやサン・ラなどが独自にフリージャズを展開していた。

「フリー・ジャズ」は、「モード・ジャズまでのモダン・ジャズの理論の束縛からの自由」であるとか、「表現の自由」であるなどといわれる。
ピアノを拳で叩くように弾く「パーカッシブ奏法」や、サックスの絶叫奏法ともいうべき、「フリーキー・トーン」なども、この流れの中で出てきた演奏法である。
自由な即興演奏を「フリー・インプロビゼーション」、自由な束縛のない演奏形式を「フリー・フォーム」というが、ジャズの範囲でいう時には、この、フリー・ジャズと同義で用いられることも多い。

批判 [編集]
古典的、伝統的ジャズに傾倒している聴衆の中には、「理解できない」「音楽として認めない」という者もかつてはいた。

だが、ハード・バップでの行き詰まりを打開したジャズの流れとして、モード・ジャズと双璧として、並んで挙げられることが多い。また、現在では広く認知され、ファンも多い。

類似表現 [編集]
アバンギャルド
同時期に発生したジャズのうち、現代音楽的手法に基づいた演奏スタイルで、
西洋音楽のルールから大きく逸脱しない範囲のもの。
ロフト・ジャズ
やや年代が下って、当時の若手前衛ジャズ演奏家たちなどによって行われた前衛ジャズを指す。
傾向いかんにかかわらず、厳密に区別されている。

音楽理論的側面 [編集]

1960年代後半 [編集]
オーネット・コールマンやジョン・コルトレーンにより、ビー・バップ・スタイルの行き詰まりを打開するために、既成の概念を全て否定するスタイルが開拓された。

既成の概念とは、形式、調性、メロディ、コード進行、リズム、4ビートなどである。
この試みは、既成の概念をただ否定するばかりで、結果的に音楽的側面での進歩は生まれなかった。

1970年代 [編集]
ポスト・フリー(フリー以降)の時代には、フリー・ジャズがただ既成の概念を否定していたのに対し、既成の概念を否定しつつ新しい秩序を模索するという試みが始まった。 フリー・ジャズで一度否定されたコードやモードを、新しい秩序の中で利用する工夫が行われている。

ドミナント・モーションを持たないコード進行を主体とするスタイル。
旋法の手法をさらに発展させたスタイル。
1のスタイル
自由に頻繁な転調を行ったり、
コード進行に12音技法を用いたり、分数コード superimposed chord を用いたりする。
2のスタイル
コンポジット・モードと呼ばれる新しいモードを創作したり、
モーダル・フレージングを発展(アッパー・ストラクチャ・トライアドの応用やペンタトニック・スケールの応用など)させたり、
複旋法(ポリ・モード)を使用したりする。
モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

2009年03月25日

伊那電気鉄道の電車

伊那電気鉄道は、発足当初は伊那電車軌道と称し、1909年(明治42年)12月、軌道法に準拠した「軌道」として辰野 - 松島間を開業し、1911年(明治44年)には、伊那町までが、軌道法準拠により建設された。伊那町以南は、軽便鉄道法に準拠[1]する「軽便鉄道」として建設され、1927年(昭和2年)に天竜峡までの全区間が開通した。

その間、1919年(大正8年)8月に社名を伊那電気鉄道と改称し、1923年(大正14年)3月に辰野 - 伊那松島間、同年12月に伊那松島 - 伊那町間を改築のうえ地方鉄道に変更し、架線電圧を600Vから1200Vに昇圧した。

このような経緯により、伊那電気鉄道の車両は、1923年の昇圧を境として2期に区分することができる。昇圧後は、一部の600V用電車が付随車に改造されて、1200V用電動車による牽引用に残されたほかは、新たに1200V用電動車を新造し、取替えられている。

伊那電気鉄道は、1943年(昭和18年)8月1日に、路線の連続する三信鉄道、鳳来寺鉄道、豊川鉄道とともに戦時買収され、鉄道省の飯田線となった。この時点で在籍していたのは、電気機関車9両、電車29両(電動車15両、付随車14両)、貨車51両(有蓋車24両、無蓋車27両)であった。

また、伊那電気鉄道の車両について特記すべき事は、自社松島工場での車両製造能力を有していたことで、自社用ばかりでなく、他社(岡崎電気軌道、三河鉄道、筑摩電気鉄道)用の車両製造も請け負っていた。


昇圧前の車両 [編集]
この時代の車両は、延べで2軸電動客車14両、ボギー電動客車3両、2軸付随客車5両、2軸電動貨車6両の計28両である。

伊那電気鉄道が軌道を生い立ちとしたことから、路面電車規格の4輪(2軸)車が主体である。開業時には電動客車3両、付随客車1両、電動貨車1両の計5両であったが、軌道法に基づく辰野 - 伊那町間では連結運転をすることができないため、同車の使用開始は地方鉄道法に準拠して建設された伊那町以南開業時にまでずれ込んだ。また、連結運転ができないという事情から、電動貨車を多数保有したのも特徴である。

また、1921年(大正10年)9月には、在籍車に廃車や譲渡により欠番を生じていたことから、番号整理のための改番(以降「第1次大改番」と呼ぶ)を実施している。

電動客車 [編集]
1 - 3
1909年12月認可により、東京の天野工場で製造された2軸電動車である。前面は3枚窓で中央窓上に行先幕、同窓下に前照灯を装備している。出入り台は開放式で、側面窓は8枚、屋根はモニター形である。定員は38人、自重は5.3t、電動機は25PS×2で台車はブリル21Eである。集電装置はポールによる単線式で、2基を屋根中央部に装備している。
第1次大改番時には番号の変更はなく、1924年(大正13年)度に除籍されたものと思われる。
1, 2(?) → 7, 8
1911年(明治44年)に、後述の電動貨車1両とともに天野工場で製造された2軸電動車である。車体等の詳細は不明であるが、定員は37人、電動機出力は36PS×2に変更されている。1914年(大正3年)に次項の4 - 6が製造された際に、7, 8と改められている。
しかし、前述のとおりとすると、同じ電動車である前述の1 - 3のグループと番号が重複するものがあったことになるが、これは開業したばかりの鉄道線に軌道線用として新造したの2両(4, 5と付番されていた?)を振り向け、鉄道線用の1, 2としたのではないかと鉄道史研究家の白土貞夫は推定[2]している。第1次大改番時には、他の車両が7, 8と付番されていることから、それまでに処分されたものと考えられる。
4 - 6 → 6 - 8(2代)
1914年(大正3年)に汽車製造で製造された鉄道線用の2軸電動車である。定員は37人、自重は7tで、車体はモニター屋根の角張った車体である。電動機は37PS×2で、台車はブリル21Eである。第1次大改番では、6 - 8(2代)となった。昇圧後は使用停止となり、1932年(昭和7年)7月12日付けで廃車、解体された。
10 - 12 → 9 - 11(2代)
1917年(大正6年)に天野工場で製造された2軸電動車である。認可書類には大正3年製と同一使用とする旨の記述があるが、車体は次項の13 - 15とほぼ同一で、車体幅が若干相違する程度である。定員は37人、自重は7.5t、電動機はさらに強力となり、50PS×2である。
昇圧後は使用停止となり、1925年(大正14年)8月22日付けで長州鉄道(後の山陽電気軌道)に譲渡された。
13 - 15 → 12 - 14(2代)
前項の10?12とともに汽車製造で製造された2軸電動車である。定員は44人、自重は8.5t、電動機は50PS×2である。
昇圧後は使用停止となり、伊那電気鉄道の傍系会社であった銚子鉄道(現在の銚子電気鉄道)の電化開業用として譲渡され、同社のデハ1 - 3となった。その際に、松島工場において相当の改造を受けたものと思われ、譲渡前後で車体形状は大きく異なる。
ホ1 - 3
飯田までの延伸開業に際して、1920年(大正9年)6月設計認可を受け、日本車輛製造東京支店で製造された、伊那電気鉄道初のボギー車である。定員は80人、自重は21t、前面は軽いRを設けた3枚固形窓で、側面窓配置は両端に出入り台を設けてその間に窓が15枚ある。出入り台には、折戸を設けていた。電動機は50PS×4で、空気制動機を装備していた。
昇圧後は、番号はそのままで電装解除のうえ電動車による牽引専用の後付付随車として使用されたが、1926年(大正15年)4月9日付けの改番(以下「第2次大改番」という)により、サハフ300, 301,サロハフ200に改められた。以降の経歴については、昇圧後の車両の節で記述する。

付随客車 [編集]
600V時代の附随客車については、下記の5両が存在したと推定されるが、鉄道統計資料や営業報告書の記載に矛盾がみられ、正確なところはよく判っていない。1 - 3については、1917年(大正6年)度の鉄道統計まで記載されているが、それ以後は消滅し、1920年後期の営業報告書では2両の記載が見られ、さらに翌年前記では3両に増加し、これが1922年(大正11年)度まで続いており、要目については1 - 3と同一の数値が記載されていた。しかし、同年度の鉄道統計資料には29, 30に相当する2両のみが計上されており、営業報告書の数値と矛盾する。

1
1909年の開業に際して用意された天野工場製の2軸客車であるが、軌道法の規定により連結運転が認められなかったため、連結運転認可を受けた1910年(明治43年)8月29日付けで入籍、使用が開始された。台車形式は不明だがブリル製、自重は3.4tである。
2, 3
1912年(明治45年)天野工場製の2軸客車で、車体は1と同形である。自重は3.4t、定員は37人。
29, 30 → 35, 36
1919年(大正8年)7月、日本車輛製造製の2軸郵便荷物車である。荷重は7tであるが、郵便室と荷物室の間は簡単な柵で仕切られていたのみである。番号が従来の客車に比べ、大きく飛んでいるが、これは貨車である有蓋緩急車の後に付番したためである。
第1次大改番により35, 36と改番されたが、この時も有蓋緩急車の後に付番されている。昇圧まで使用されたが、1924年度に35が廃車、翌年に36は有蓋緩急車(貨車)に類別変更され、ワフ36となっている。

電動貨車 [編集]
1 → 4(2代)
1909年の伊那電車軌道開業にともない、前述の電動客車3両(1 - 3)と同時認可により、天野工場で製造された電動貨車である。荷重は2t、25PSの電動機を2基、ブリル21E台車に装架し、車体長を18ftとする記録がある一方で、荷重5t、最大長23ft6in×最大高10ft9 1/4in、最大幅6ft1/2in、電動機36PS×2個とする記録もあり、途中で自社松島工場で車体を新造し載せ換え、または、全く別物の新造車に振替えられた可能性が高い。
第1次大改番により2代目4に改称されたが、昇圧後は使用されなくなり、1932年(昭和7年)7月12日付けで廃車された。
2, 3 → 2(2代), 4 → 3(2代), 5
貨物需要の増加に伴って、1914年(大正3年)に4両が天野工場で製造されたものである。荷重は5t、最大寸法は長さ24ft11in×高さ10ft9 1/2in×幅5ft10 1/4inで、台車はブリル21E、電動機は50PS×2である。
3, 4は、第1次大改番によって2, 3(いずれも2代目)に改められたが、1928年(昭和3年)4月25日付けで岡崎電気軌道(後の名鉄岡崎市内線)に譲渡され、同社の1, 2となったが、同社の記録では車両が引き渡された1927年(昭和2年)7月、伊那電気鉄道松島工場製としており、譲渡の際、台枠、台車、電動機等を再用して車体を新造したものと思われる[3]。
初代2については、その後消息不明。5については1927年7月に筑摩電気鉄道に譲渡され同社のデワ2となったが、いつの間にか後述の6の履歴を受け継ぎ、1918年(大正7年)製となっていた。
6
1918年5月9日設計認可の自社松島工場製[4]の電動貨車で、荷重は5t、最大寸法は長さ23ft6in×高さ10ft9 1/2in×幅7ftで、電動機は50PS×2である。1921年(大正10年)9月15日認可により、台車をブリル21Eに交換し、電動機も36PS×2個としているが、昇圧により使用されなくなり、1932年7月12日付けで廃車となった。

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2009年03月09日

東洲斎写楽

東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、正字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代の浮世絵師である。寛政6年(1794年)に出版が開始された後、確認されている錦絵作品は、およそ10ヶ月の期間内に集中しており、その後の消息は不明である。

確認されている中で、写楽の筆によるものと思われる作品の大首絵は、大胆かつ巧みにデフォルメを駆使しながらも、目の皺や鷲鼻、受け口など、その役者が持つ個性をありのままに描く、ユニークな役者絵である。したがって、描かれた役者と役柄から写楽の実像を推測するべく検証がなされ、これが現在の写楽説の主流を為している。彼らが出演した芝居の上演時期が判明しており、これを元に役者絵の発表時期は4期に分けられる。しかし、後期に向かうほど、作品における絵画的才能や版画としての品質は劣る為、真偽に疑問が投げかけられているものも多い。なお、すべて蔦屋重三郎の店から出版されている(挿図の右下方に富士に蔦の「蔦屋」の印が見える)。

第1期が寛政6年5月(28枚)、第2期が寛政6年7月・8月、第3期が寛政6年11月・閏11月、第4期が寛政7年1月に当たる。写楽の代表作とされるものは第1期の作品で、後になるほど生彩を欠いてしまう。このほかに相撲絵などで、写楽銘の残るものがある。

ドイツの美術研究家ユリウス・クルトがレンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と激賞したことがきっかけで("Sharaku" 1910年)、大正以降、日本でも評価が高まった。

別人説
『江戸名所図会』などで知られる考証家・斎藤月岑が写楽の本名は阿波(蜂須賀家)の能役者・斎藤十郎兵衛で、八丁堀在住であると書き残しているが(『浮世絵類考』への加筆)、十郎兵衛の実在が中々確認できなかったことから誰か有名な絵師の変名ではないかということで、「写楽別人説」が唱えられた。

蔦屋が無名の新人の作を多く出版したのは何故か、短期間に活動をやめてしまったのは何故かなどといった点が謎解きの興味を生み、別人説の候補として浮世絵師の葛飾北斎、喜多川歌麿、作家の十返舎一九、俳人の谷素外[1]など、多くの人物の名が挙げられてきた。

しかし近年の研究によって能役者・斎藤十郎兵衛の実在が確認され、別人説は弱まっている。
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斎藤十郎兵衛について
以下の史料から、実際に阿波の能役者・斎藤十郎兵衛が八丁堀に住んでいたことが明らかになり、写楽と同一人物である可能性は高いと考えられる。

能役者の公式名簿である「猿楽分限帖」に斎藤十郎兵衛の記載がある。
同じく能役者の伝記「重修猿楽伝記」にも斎藤十郎兵衛の記載がある。
埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳(文政3年)に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛」が58歳で亡くなり千住にて火葬にしたとの記録がある。
江戸の文化人名簿の『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に「写楽斎 地蔵橋」との記録がある。
浮世絵類考の写本の一つ(達磨屋伍一旧蔵本、 斎藤月岑の増補以前?)には「写楽は阿州の士にて斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話なり」とある。栄松斎長喜は写楽と同じ蔦屋重三郎版元の浮世絵師であり、写楽の事を知っていたと思われる(長喜の作品「高島屋おひさ」には団扇に写楽の絵が描かれている)。

2009年02月20日

サスロ・ザビ

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デギンの次男(三男説あり)。年齢等詳細は不明(宇宙世紀0068年没説あり)。彼の設定はアニメの準備稿には存在したものの、劇中にはその名は存在せず、世間一般には小説版で初めて名前が登場した。また一説には安彦良和のキャラクター原案のラフスケッチが一部ファンに流出し、そこから生まれたキャラクターともいわれる。後のギレンとドズルの原型となるらしいスケッチ画が残る。

一年戦争時には既に死亡していたため、アニメの『機動戦士ガンダム』作中には登場せず、小説版でも政治家としての能力が高かった旨が語られるのみで、その人物像は長い間不明だった。

在命中のサスロ・ザビは『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の「シャア・セイラ編」で初登場。そこで描かれる外見は、ギレンの目つきの悪さとドズルの屈強な体格を併せ持っている。彼はムンゾ国民運動部長としてマスコミを牛耳り、世論操作などを行っていたとされる。仕事ぶりは非常に良かったが、ダイクンの遺児を取り逃がした妹キシリアを殴り、それを咎めたドズルにもしつこく文句をいうなど、性格面においてもギレンの傲慢さとドズルの粗暴さを併せ持つという負の側面が強い。

ジオン・ダイクンの葬儀の際、テロにより乗車を爆破され暗殺されたとされている。同行していたドズルは兄弟を守れなかったという後悔の念から、末弟のガルマを溺愛するようになった。また、彼の特徴である顔の傷はその時に出来たものであるという説がある。『THE ORIGIN』劇中では、この暗殺は彼に怨恨を抱いたキシリアの仕業と思わせる描写がなされているが、真相は定かではない。マスコミ操作により、世間ではザビ家と対立するジンバ・ラルの謀略と思われていた。なお、サスロの死に対して、ドズル以外のザビ家の面々は悲しむ素振りすら見せなかったことから、その高慢な性格ゆえ家族からも疎まれていたようである(というより、ドズル以外のデギンの子供達は、身内の誰が死んでもろくに悲しむ素振りを見せていない)。ドズルは死後も彼を偲んでおり、「パーティーなどの派手な行事に参加するのは嫌になった」と語っている。妻子については不明だが、ドズルの子ミネバが戦後のザビ家唯一の血筋だった事から子供はいなかったと見られる。

ドズル・ザビ
Dozle Zabi
声:長堀芳夫(現:郷里大輔、TV版・劇場版I)/ 玄田哲章(劇場版III・特別版I / III)
ジオン公国軍宇宙攻撃軍司令で階級は中将。身長210cmの巨漢。デギンの三男。放映開始時の年齢は28歳。次男説があり、その説によれば、親ダイクン派(旧ジオン派)によると思われる爆弾テロの際、同じ車に乗っていた弟サスロを守れなかったことから、自らを三男と名乗るようになったとされ、この時の傷痕を顔に残したのもその戒めだといわれている。一方、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』では元から「サスロ兄」と呼んでいる。

なお、軍服の肩のトゲは威嚇用であるとも、従来のロボットアニメの”典型的な力押しタイプの悪役デザイン”の名残であるとも言われている。『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』では一年戦争以前はジオン士官学校校長をしており、彼の妻ゼナはこの時の生徒だったと描かれている。

通説では、ドズルは妾の子とされている。そのせいか父デギンからはあまり愛されておらず、むしろ不当なまでに酷い扱いを受けている。ドズルの死に対して、デギンはギレンですら憤るほど反応が少なかった。漫画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』ではさらに酷く、ガルマが士官学校の生徒達と蜂起した「暁の蜂起事件」の際、ドズルには殆ど責任はないにもかかわらず「能無し」と罵られた上にガルマ達の責任を全て負う形で士官学校校長の座を辞任させられている。

乗艦はグワジン級戦艦グワラン(小説版ではガンドワ)、ルウム戦役時はシャアに譲渡する目的で竣工され、将官用ムサイ級カスタム軽巡洋艦ワルキューレとも言われるムサイ級軽巡洋艦ファルメル。搭乗したMSはドズル・ザビ専用ザクIIで、両肩に刺がつき、カーキベースの金縁模様、ヒートホークはランバ・ラル専用ザクIと同じ大型タイプという、いかにも高級カスタム機らしい風情である。 ただしこれらは設定上の話で、彼の専用艦船やMSはアニメ本編には登場していない(グワランはソロモン防衛戦で出撃したが彼が乗っていたわけではない)。TV版第11話と劇場版Iでは、ガルマの葬儀に出席するためにズム・シティに帰還する際は一般型のムサイに乗艦している。

ルウム戦役後は、サイド5の空域に建設された宇宙要塞ソロモンに駐留する。ザビ家には父デギンをはじめ、ギレンやキシリアといった政治力に長けた人物が多いが、ドズルは政治に関与せず、純粋な武人として振舞っていた。指揮官としての統率力・指揮能力も十分にあり、部下の信望も篤い。また愛妻家としても知られており、家族に深い愛情を注いでいた。『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』では、妻ゼナに向かって権力の増大とともに人間味を失っていく肉親たちを嘆いている。妻のゼナとの間に娘ミネバがいる。

当初はモビルスーツを軽視していたものの、一週間戦争の戦果によりそれを認めるようになった。『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』ではこの通説と異なり、モビルスーツの開発を主導したことになっている。以後は司令官としてだけに留まらず、ザクIIF型(S型説もある)を改修した専用機を操り前線に出向くこともあった。これはポーズに過ぎないが、前線兵士の士気高揚に大きな効果を上げたという。戦場視察を名目に実戦に赴いたとの説もあるが、直属の部下たちから行動を諌められたとも推測され、戦果は記録されていない。

母ナルスの面影を強く残す弟ガルマを溺愛しており、彼の能力を高く評価して、ドズル自身をも使いこなすような将軍になれと言う程その成長を楽しみにしていた。ガルマは「坊や」など甘さを指摘されるが、占領した現地の住民と上手く付き合って不満を抑えることに成功しており、占領軍の統率者としては有能である。ジオンが勝利した後の戦後処理ではガルマのような人材は非常に価値が大きいことから、これは必ずしもドズルの身内の贔屓とは言えない。そのため、ガルマの戦死後には彼を守りきれなかったとしてシャアを左遷した。彼自身はシャアの処刑を主張していたが、デギンの裁定で左遷となった経緯がある。またガルマの仇討ち部隊としてランバ・ラル隊を地球に派遣している。また、左遷の後キシリアに登用されたシャアを牽制するために、サイド6に寄港したホワイトベースに対してコンスコン少将指揮下の機動部隊を派遣している。

地球連邦軍のチェンバロ作戦(ソロモン攻略戦)が開始される前にギレンへ援軍を要請するが、ソロモンに送られてきたのは試作モビルアーマー「ビグ・ザム」1機のみだった。通信での会議の席でビグ・ザム1機で2?3個師団にも相当するはずと豪語するギレンに対し、ドズルは思わず「戦いは数だよ」と不満をぶつけている。これは「まず兵数ありき」のまっとうな用兵概念に基づいた発言であり、猪武者・精神論主義者に見られがちなドズルのイメージが必ずしも正しくないことが判る。ただし、「ドムの十機も回さんのか」と呟きながら、ソロモン戦の直前、キシリア・シャアへのあてつけ目的で送ったコンスコン隊に艦四隻にドム十八機(劇場版では艦三隻とドム十二機)を与えるなど、彼自身も私情で貴重な戦力を浪費した事は否定できない。

宇宙世紀0079年12月24日、ついにティアンム提督指揮下の連邦軍によるソロモン攻略戦が始まると、地球連邦軍の量産MSジムやボールによる熾烈な攻撃や、新兵器ソーラ・システムにより甚大な被害を受け、劣勢に追い込まれる。もはやソロモンを支えきれないと判断したドズルは、妻子を脱出させた後にソロモンの放棄を命令し、自らはビグ・ザムに搭乗して出撃。残存兵力が撤退する時間を稼ぐため、連邦艦隊の中心部へ特攻をかけた。この時、士官用にカスタマイズされたノーマルスーツの多いジオン軍内にあって、敢えて一般兵用のノーマルスーツで出撃したドズルについて、安彦良和は「ドズルらしい」とのちに述べている。安彦はこのエピソードのTV版制作当時、過労で入院していたため設定に参加できなかったが、ドズル用ノーマルスーツ案を持っていた。

ドズルの操るビグ・ザムは強力な磁界(のちのIフィールド)を張り巡らせて長距離ビーム砲を無効化し、大型メガ粒子砲でティアンム提督の旗艦『タイタン』を撃沈、さらに拡散ビーム砲の斉射によって連邦軍のサラミス級巡洋艦やモビルスーツを多数撃破した。この圧倒的戦果に自信を得たドズルの「ビグ・ザムが量産化できれば連邦に勝てる」という意味のセリフは印象的であり、現在でも引用されることが多い。しかし、Iフィールドジェネレーターによるバリアシステムの弱点を見抜いたスレッガー・ロウは、自らが操縦するGファイター(劇場版ではコア・ブースター)とアムロ・レイの操縦するガンダムを合体させ、攻撃が有効となるギリギリの距離まで接近しての攻撃をかける。この捨て身の攻撃でスレッガーは戦死したが、ビグ・ザムはガンダムのビームサーベルで撃破され、ドズルは戦死した。その直前、ドズルは「やらせはせん!やらせはせんぞ!!」と断末魔にも似た執念の言葉を叫びながら単身ノーマルスーツ姿で無反動ライフルをガンダムに向けて発砲しているが、アムロはドズルの背後に立ち昇る悪鬼のような人間の情念を目の当たりにして戦慄している。劇場版ではもっと抽象的な黒い霧のような存在に描き直されている。ちなみに、劇場版のこのシーンでドズルを演じていた玄田は、TV版ではスレッガーを演じていた。

小説版でもTV版と同様にビグ・ザムで出撃し、ガンダムとの戦闘後に戦死しているが、いくつかTV版と大きな相違がある。まず戦場がソロモンではなくコレヒドール宙域(ソロモンとア・バオア・クーの中間点)であること、次いでスレッガーは戦死せず一年戦争を生き延びていること、死に際に彼の脳裏に浮かんだ妻の名がゼナではなく「ナルス」となっていること等である。

ドズルは策略家だったギレンやキシリアとは異なり、ザビ家の中ではもっぱら現場第一主義だった。戦略的視野に欠けた司令官として批判されることもあるが、基本的に有能な指揮官であり、前線の兵士の事もきちんと考えていたため、部下にも敬愛されている。また、基本的に軍事レベルでの立場に終始していたが、戦略と戦術の区別がついていた数少ない人間でもある。上述の「戦いは数だよ」発言や、『THE ORIGIN』における士官学校校長としての訓示等にその一端がうかがえる。

だが、それゆえドズルはそれぞれの派閥を作る親兄妹から孤立してしまい、ソロモンの危機に際しても、援軍を出したのはギレン一人で(それも未完成の試作モビルアーマー一機)、キシリアの援軍は到着せず、デギンに至っては黙殺していた。

彼の元にはシャア・アズナブル、シン・マツナガ、アナベル・ガトー、ランバ・ラルなど多くのエースパイロットが集まった。ザビ家という陰謀の館の中ではガルマと共に例外的に人間味があり、それ故にやがて孤立して戦いの中に散った悲劇の人とも言える。

『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』では人間味のある部分が強調されており、ルウム戦役で殿を務めた僚艦の撃沈に涙したり、ルウム戦役の終結時には全軍に「すべての戦死者への敬礼」を命じる描写がある。またゲーム『ギレンの野望』ではルウム戦役で捕虜になった敵将レビルに敬礼するシーンもあり、武人としての礼節を重んじる一面もあったようである。

ガルマ・ザビ
Garma Zabi
声:森功至
ジオン公国軍地球方面軍司令。階級は大佐(『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』では少将)。デギンの四男(三男説も一部である)。放映開始時の設定年齢は20歳。主な乗艦はガウ攻撃空母。

ジオン公国の士官学校を首席で卒業。実際は次席であり、首席のシャアがガルマに花を持たせ譲ったとも言われているが定かではない。ジオン公国の御曹司にして美男子という事でジオン国民の人気も高く、父デギンや兄ドズルからもその将来を嘱望されていた。基本的に優しくナイーブな青年で、育ちが良いせいか疑うことを知らず他人を信用し過ぎるため、ガルマを溺愛していた父デギンは彼が軍人の道を選んだ事をかなり心配していたようである。『THE ORIGIN』では猛々しい性格の他の兄姉と違って気性が優しいガルマに対して「お前は学者にでもすれば良かった」と心配する記述もある。また、右手で前髪をいじる癖があるなど繊細で神経質な面も見られた。そういった意味で、ギレンの国葬演説を聞いていたシャアによる「坊や」だという評はガルマの人柄を簡潔にして端的に言い表していると言えよう。シャアのガンダムシリーズを通してのただ一人の友人で、士官学校以来の付き合いである。シャアはザビ家への復讐のためにガルマに近づいたのだが、「お坊ちゃん」「坊や」と精神的な甘さを指摘する一方、「いい友人」発言など、彼の人格自体には、それなりに好感は持っていたような発言や描写も見られる。

一年戦争ではジオン公国軍の地球方面軍司令官として北米に拠る。実質的に地球方面軍は姉キシリア率いる突撃機動軍の麾下であり、彼はあくまで名目上の司令官でしかなかった。またその権限も実質的にジオン地上軍第2軍(北米方面軍)司令官程度の物に限定されている(但し、北米は豊富な工業力と食料地帯を有する上に南米の連邦軍本部ジャブローを牽制する要地でもあった)。占領軍の司令官としては割合有能で、軍規の維持に成功していたのみならず、現地の住民とも上手く付き合って協力を引き出している。彼の優しい人柄と社交性が発露されたといえばそれまでであるが、当時はコロニー落としで地球の住人のほぼ全てが強い憎悪を抱いていた点から考えると大成果と言える。 司令官でありながら、戦闘機(ブラウンに塗装された専用ドップ)に搭乗し(降下作戦にはザクIIFSに搭乗したという説がある)、前線に出撃する事も多かった。この事は、他のジオン将校や国民から、自らの地位・肩書きが親の七光りによるものと見なされることを嫌い、自ら功を挙げるため彼なりの懸命な努力を示さんとする行為でもあった。また、占領地として赴いたニューヤーク(『THE ORIGIN』ではロサンゼルス)の前市長エッシェンバッハの愛娘、イセリナとは結婚を誓い合うほどの恋仲だった。

シャアに「ジオン十字勲章」ものの獲物だと唆され、勇んでガウ攻撃空母を主力とする部隊を率いてホワイトベースを攻撃に向かうが、ガンダムをはじめとするホワイトベース隊の必死の抵抗の前に連戦連敗。ホワイトベースが北米大陸を抜け、太平洋に出ようとする第10話で「親友」シャアの奸計により、囮となってあらぬ方向へ逃走するガンダムをガウで追跡するよう誘導され、待ち伏せしていたホワイトベース及びガンキャノン、ガンタンクに無防備な背後をさらした瞬間、総攻撃を受けてしまう。その際、シャアから裏切りを告げられ、愕然としながら「親友」の正体(シャア=キャスバルということには気づいていないと推測されるが)と本性に気づく。嘲笑するシャアの声が響く中、ガウ攻撃空母の舵を自ら取り180度回頭させてホワイトベースを道連れにすべく体当たり攻撃をかけるも間一髪でかわされ、爆発四散するガウの中で戦死する。脳裏にイセリナを思い浮かべつつ叫んだ彼の最期の台詞「ジオン公国に栄光あれ」はガンダムの作中でも印象的なものの一つである。なおシャアがガルマを間接的に謀殺したという事実は表には出ていないが、シャアはガルマを守りきれなかった責任をドズルに問われ、左遷(予備役編入)されている。

ガルマの葬儀は国威発揚・戦意高揚のための国葬として、ギレンによって大々的に利用され、目論見通り絶大なる効果を発揮した。しかし、父親であるデギンは、身内のみでの密葬を望み、最後まで国葬に難色を示していた。ザビ家内で誰からも好かれていたガルマの死は、葬儀にも現れたように皮肉にもザビ家内の各個の対立を表面化させより深くする結果となってしまう。

TV版第11話ではガルマと恋仲だったイセリナが、ガルマの部下だったダロタと共に敵討ちに向かう姿が描かれている。その後、仇討ち部隊としてドズル麾下のランバ・ラル隊が地球に降下し、ホワイトベース追撃の任務に当たることになる。

小説版では、シャアの謀略によってではなくガウ攻撃空母で木馬(ペガサス)へ馬鹿正直な正面攻撃を敢行したために、シャアが止めるのも間に合わずメガ粒子砲の直撃を食らって呆気なく戦死という描写がなされている。

放送当時その容姿から女性ファンに対して、シャアと並ぶ人気があり、第10話の放送後カミソリ入りの手紙がサンライズに送りつけられたというエピソードまである。

『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』では「ガルマ編」のみならず、「過去編」でもシャアに強烈なライバル心を抱き、事ある毎に張り合おうとし、やがてライバルから友人として信頼していく姿や、彼が国民的人気を得るようになった出来事などが生き生きと描かれている。またガルマは決して無能ではないが、シャアという圧倒的な才能の前にはかすみがちであり、加えて苦労知らずだったために、むざむざと復讐に燃えるシャアの犠牲になってしまった、という描写がなされている。

バンダイのゲーム『ギレンの野望 ジオンの系譜』ではifシナリオの一つとして、彼が戦死せず兄ドズルやランバ・ラルらを部下に従えイセリナに見守られながら「新生ジオン」の総司令官として立つ「ガルマの栄光?新生ジオン編?」が登場する。ここでの彼はジオン公国の罪を自覚し、その贖罪のために軍を率いるという設定で髪を束ねており、以前の甘さを払拭しようとイメージチェンジを図っている節がある。また、ゲーム『ギレンの野望 特別編 蒼き星の覇者』では、一年戦争でのジオン軍勝利の後に地球圏の掌握をめぐり姉キシリアが率いる「正統ジオン」と敵対するif展開が用意されている。

2009年02月04日

三宅氏は日本の氏のひとつ

三宅氏は日本の氏のひとつ。

三宅氏には多くの流派がある。
シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア

三宅康貞に代表される田原城 (三河国)の城主だった徳川家康の家臣の系統。
三宅国村に代表される摂津三宅城主だった摂津国人の系統。
三宅総広に代表される能登畠山氏重臣で畠山八臣と呼ばれた系統。

徳川家譜代大名で挙母藩主となった三宅康貞の家系で、祖は鎌倉時代末期に現れた古代の三宅連の末裔の児島高徳であるとする。三河国内で三宅氏の活動がわかるのは15世紀末になってである。三宅筑前守家次なる人物が猿投神社の棟札に名を残すが、系譜上は確認できないが、三宅筑後守貞次のことではないかとされる。明応2年(1493年)の井田野の戦いに松平親忠と戦った武将に三宅伊賀守がいるが、これもこの系統の人物であろうが系譜は不明である。16世紀末になると足助などにまで勢力を強めるなど活動するが、三宅政盛が松平清康に攻められ降伏した記録があり、同じころに、三宅周防守清貞が清康に居城伊保城を攻略され逃亡した記録があり、三宅右衛門大夫高貞がその後に現れて清康に攻められていることから、分流がいくつか存在したか、戦国時代の荒波の中で歴代の当主が死去したものかと思われる。松平家に松平元康(徳川家康)が現れると、三宅正貞は、永禄9年(1558年)に松平氏の家臣となった。その子が三宅康貞である。その後、江戸時代には挙母藩主、伊勢亀山藩主を務めた後、田原藩主として幕末まで存続した。

この三河田原城の三宅氏の江戸藩邸の坂が、東京の最高裁判所の別名にも使われる三宅坂である。

系図
太線は実子、細線は養子。

正貞

康貞

康信

康盛

康勝

康雄
┣━━━┓
康徳 松平近貞
┃   ┃
康高  康之
     ┣━━━┳━━━┓
    康武  康邦  康友
             ┣━━━┳━━━┓
            康和  康明  友信
                 |   ┃
                康直  康保

摂津国人三宅氏
藤原北家宇都宮氏流とも、藤原南家藤原武智麻呂の末流とも、前述の三宅氏同様に古代の三宅連の末裔ともいうが何れも伝説の域をでない。15世紀の初頭に摂津国国人三宅氏は史上に現れる。それは応仁の乱の際で、東軍の細川勝元の家臣で摂津国守護代であった薬師寺与一に率いられた摂津国人衆の一員としてであった。西軍は戦局打開の策として西国の大大名の大内政弘に大軍を率いさせて上洛させた。その大内軍を摂津で迎撃した細川軍の主力は摂津の国人領主たちであった。この戦で三宅氏の一族であろうと思われる三宅三郎という武将が戦死し、他の摂津国人の池田氏らとともに三宅氏も大内氏に降伏した。大内氏が都を離れると三宅氏は旧主の細川氏の下に帰参した。その後、細川氏は細川政元の跡目をめぐって争いが生じ、その際、細川氏の本領ともいえる摂津国も戦渦に巻き込まれた。跡目争いでは細川高国側に属して摂津国人の伊丹氏・瓦林氏らと池田氏のよる池田城を攻め落とした。細川高国が和泉国の深井の戦いで討ち死にした際には三宅和泉守(村綱か?)という三宅氏の当主が戦死している。後を継いだ思われる三宅国村はその後、高国の子、細川晴国を奉じて挙兵するが敗れ、晴国を殺害して細川晴元側に寝返り、高国の残党の伊丹国扶と戦っている。天文17年(1548年)、晴元がその執事三好長慶と対立を深めたとき、細川晴元を見限り、三宅国村は長慶側に寝返った。しかし翌年3月、三宅城は晴元側の勇将香西元成に攻められてあっけなく落城。それ以降香西元成が三宅城に拠った。しかし、6月になると三好長慶が退勢を挽回し、三宅城を攻撃。その際に三宅国村は奮戦して三宅城主として返り咲いた。天文21年(1552年)三好長慶は将軍足利義輝を京都に迎え、細川氏綱を管領とした。しかし、翌年、義輝は晴元を召し返そうとしたため、長慶と対立した。三宅国村は義輝攻撃の軍に加わり、三宅城は一族の三宅村良が守ったが、細川晴元側の香西元成に攻められて三宅城は落城し三宅村良は討死している。しかし、三宅国村はすぐに三好長慶の支援で三宅城を奪回している。だが、新たな恩賞がなかったことに国村は不満があったのか河内国守護の畠山高政が三好長慶に敵対して挙兵すると教興寺の戦いで畠山高政に味方したが、三好軍に瞬く間に三宅城を攻略され没落してしまった。

能登畠山氏重臣三宅氏
能登畠山氏の重臣で第一次七人衆の一人であった三宅総広。その後の第二次七人衆には三宅総広にくわえて三宅総賢の名も現れる。三宅綱賢、三宅綱久、三宅続長などが弘治の内乱の際に温井総貞方として見える。

教興寺の戦い(きょうこうじのたたかい)は、永禄5年(1562年)5月19日、20日の両日に、河内国高安郡教興寺村(現在の大阪府八尾市教興寺)付近であった三好長慶と畠山高政との合戦。別名、教興寺合戦。戦国時代における畿内での最大の会戦。

下克上で細川管領体制を崩壊させた新興勢力である三好政権と、細川氏と同族であり、同じく室町幕府三管領のひとつであり、長年細川氏と対立してきた旧勢力の河内畠山氏が、畿内の覇権をめぐって争った一連の戦いの最終章。新興勢力の智将、三好長慶と旧勢力の勇将、畠山高政が互いの勢力の全てを結集して会戦であり、三好長慶はこの戦いに勝利することで、畿内の旧勢力の抵抗を排除できた。また、河内国、和泉国を勢力下におき、大和国、紀伊国へも勢力を浸透させることに成功したことで三好長慶は天下人となった。しかし、この戦いの中で、一族の有力者であった三好政成、三好義賢などを失ったことから三好政権の前途に暗雲が見え隠れするようになった。

合戦前の状況
河内国の守護として畠山氏は室町時代の初期より君臨してきたが、隣国摂津国をはじめ、阿波国や淡路国、讃岐国などの守護であった三好長慶によって圧迫されることが多かった。

また、畠山氏の当主、畠山高政は勇将ではあったが、家中の状況は戦国の風潮があり、家臣団の統制も困難を伴った。その結果、隣国の戦国大名である三好長慶によって内政干渉を受けることも多く、家臣団筆頭である守護代を独自に決定することさえ三好長慶の干渉を受けることがあった。

1551年5月5日に守護代で、実質的に河内の国主といえた器量人の守護代遊佐長教が暗殺されると、河内国は混乱を極めたが、1552年には遊佐長教の一族で、河内国交野の有力国人の安見氏の養子に入っていた安見宗房(直政)が遊佐長教を暗殺した萱振賢継などを討伐して台頭した。この安見宗房が守護代となったが、守護の畠山高政と安見宗房が対立すると、1559年、畠山高政は有力国人を味方につけた安見宗房に対抗するために、三好長慶の援助を受けて、安見宗房に対抗した。

その際に、安見宗房は居城の飯盛山城を三好長慶に攻略され、飯盛山城は三好長慶の居城となった。その後、1560年には畠山高政と安見宗房が和睦したが、それが三好長慶に畠山氏攻撃の口実とされた。畠山高政は国人領主の統制を整え、安見宗房、湯川直光などの有力諸将を纏め上げ、三好長慶に対抗した。

1562年、そこへ六角義賢(承禎)から三好長慶挟撃の軍事同盟の提案がなされた。その背後には、室町幕府の権威回復を謀る足利義輝などの思惑もあった。新興勢力の三好氏に対して旧勢力の六角氏・畠山氏が反撃にでたといえる。

合戦までの経過
月日 状況
永禄4年(1561年)7月28日 六角義賢、将軍地蔵山に2万の軍勢で布陣。
永禄4年(1561年)11月24日 将軍地蔵山の戦い(六角義賢対三好義興)。三好方勝利。
永禄4年(1561年)12月25日 三好政成の河内三箇城が畠山方に奇襲を受けて落城。
永禄5年(1562年)1月10日 六角義賢と三好義興が京都の地蔵山で戦う。
永禄5年(1562年)1月22日 三好義興、松永久秀、将軍足利義輝に年賀を述べる。
永禄5年(1562年)2月23日 反三好、親畠山・六角の国人一揆が大和で起こる。
永禄5年(1562年)2月26日 六角義賢の軍勢、大和の国人一揆に呼応する出動を行う。
永禄5年(1562年)3月5日 畠山高政が総大将となり旗本を率い、紀州の湯川直光の率いる湯川衆と、雑賀・根来衆を中核にして、
河内の諸将を動員して久米田の戦いで三好長慶の実弟の三好義賢(物外軒実休)らの
阿波衆・淡路衆・讃岐衆を中核とする三好軍を撃破。三好義賢を討ちとり、意気盛んとなる。
永禄5年(1562年)3月6日 三好軍の敗報と三好義賢の討ち死にが飯盛山城の三好長慶、京都に布陣中の
三好義興、松永久秀に伝わる。三好義興、松永久秀ら山崎に撤退。
勝竜寺城に三好方の今村慶満が入城。西岡に池田長正、松山新介が布陣。
永禄5年(1562年)3月7日 六角義賢(承禎)軍が入洛。三好義興、松永久秀の軍勢、山崎に移動し、
六角軍の迎撃体制をとりつつ、畠山軍に対応すべく布陣。
永禄5年(1562年)3月9日 畠山高政の軍勢に大和の諸将(澤房満、秋山教家、芳野民部大輔らの宇陀郡の宇陀三将、
片岡氏、箸尾氏、筒井氏、島氏、井戸氏など)の軍勢が参陣し合流。
永禄5年(1562年)3月10日 三好義興、松永久秀が摂津国鳥飼(鳥養)に布陣し、摂津の国人領主の能勢頼道(または能勢頼幸)、
塩川長満、伊丹親興らに参集するように命じた。
また、一度、帰郷した池田長正にも再出陣を命ず。
永禄5年(1562年)3月11日 丹波の内藤宗勝、摂津の有馬村秀らに参集を命じた。
永禄5年(1562年)3月29日 畠山高政の軍勢が南河内の三好方の諸城を攻略し終え、高野街道を北上しはじめ、
三好長慶の居城、飯盛山城に向けて進撃を開始。
永禄5年(1562年)4月5日 畠山高政の軍勢が飯盛山城を包囲し、周辺の三好方の出城の攻略を開始。
永禄5年(1562年)4月11日 畠山高政の軍勢が飯盛山城の周辺の城を攻略し終える。
永禄5年(1562年)4月14日 池田長正、伊丹親興らの摂津衆が鳥飼の三好義興、松永久秀の元に参集を終える。
永禄5年(1562年)4月15日 内藤宗勝、有馬村秀らも参集した。
永禄5年(1562年)4月17日 畠山高政の軍勢、2度目の総攻撃を行う。
(1度目がいつであったかは不明、一説に4月5日)
永禄5年(1562年)4月25日 六角義賢の軍勢が停滞。畠山高政が督促。
永禄5年(1562年)5月10日 久米田の戦いで敗走した、讃岐衆、阿波衆、淡路衆などもこの頃までに随時参集し、態勢を整え終える。
永禄5年(1562年)5月14日 三好義興、松永久秀、三好康長、三好政康、三好長逸、安宅冬康、十河存保の軍勢が、
飯盛山城救援に出撃。号して5万ともいう大軍であったという。
永禄5年(1562年)5月15日 畠山高政の軍勢、飯盛山城の包囲を解き、援軍を迎撃するために後退。高野街道を南下。
永禄5年(1562年)5月16日 三好長慶の篭城の軍勢と救援の軍勢が合流。
永禄5年(1562年)5月17日 三好長慶の軍勢と畠山高政の軍勢が教興寺畷付近で対陣。
永禄5年(1562年)5月18日 安見宗房や湯川直光が謀反との流言が広がる。

兵力および指揮系統

火縄式鉄砲
兵力
兵力的には久米田の戦いとはことなり、態勢を整えなおした三好方が優勢となった。当初、畠山方が三好長慶の居城の飯盛山城を攻撃した時点では、畠山方の兵力が三好方を圧倒したが、三好義興らが摂津国の国人や丹波の国人に檄を飛ばして終結させたために劣勢を挽回し、教興寺で両軍が対陣する時点では逆に三好方が優勢となっていた。ただし、畠山方に参戦していた雑賀・根来衆の火縄銃4000丁が三好方の脅威であった。

軍勢 兵力[1] 内訳
三好方 60000余 摂津国人衆:25000余 丹波国人衆:7000余 山城国人衆:300余 播磨国人衆:500余 淡路国人衆:200余
讃岐国人衆:7000余 阿波国人衆:5000余 譜代・旗本:5000余 一門衆:10000余
畠山方 40000余 湯川衆:6000余 雑賀衆:3000余 根来衆:1000余 湯浅衆:1000余 紀伊国人衆:8000余
河内国人衆:7000余 大和国人衆:8000余 宇陀三将:3000余 和泉国人衆:500余 その他:500余
譜代・旗本衆:2000余

指揮系統
指揮系統に関しては三好方が各部隊(各国人衆)の指揮官に一族を配置して、総大将三好長慶の命令が伝わりやすい編成となっているのに対し、畠山方は国人衆の旗頭や独立した国人領主が各自で参加する編成であったために、全体の指揮系統が一元化されていない。経過をみると、明らかに三好方が先攻し、それに対して畠山方が対応するという図式となっており、戦場で指揮系統が一元化されていた三好方は先手を取り、指揮系統が一元化できていなかった畠山方は後手に回ったと思われる。

三好方

三好長慶……総大将として飯盛山城に在城。
伊沢大和守……三好長慶の作戦を各部隊に伝達。長慶の老臣。
三好義興……前線総大将として出陣。長慶の嫡子。
松永久秀……前線副将・三好義興を補佐。
三好政康……摂津国人衆を指揮。長慶の一門衆。
三好長逸……三好政康を補佐。
池田長正……摂津国人衆の旗頭。三好政長の婿。
伊丹親興……摂津国人衆の旗頭。
三好康長……阿波国人衆を臨時で指揮。長慶の叔父。
篠原長房……故三好義賢を補佐、臨時で三好康長を補佐。
十河存保……讃岐国人衆を指揮。三好義賢の子。長慶の甥。
香西元載……十河存保を補佐。
寒川元政……讃岐国人衆の旗頭
安富盛方……讃岐国人衆の旗頭
岩成友通……山城国人衆を指揮。長慶の婿。
安宅冬康……前線で譜代・旗本衆と淡路国人衆を指揮。長慶の弟。
松山新介……前線で譜代・旗本衆を指揮し、安宅冬康を補佐。
内藤宗勝……丹波国人衆を指揮。前名は松永長頼。松永久秀の弟。
畠山方

畠山高政……総大将として出陣。河内・紀伊の守護。
湯川直光……河内守護代、湯川衆・紀州国人衆を指揮。
遊佐高清……譜代・旗本衆を指揮。元守護代の故遊佐長教の一族。
斎藤盛清……遊佐高清を補佐。
安見宗房……河内国人衆の旗頭でこれを指揮。
土橋種興……雑賀・根来衆・和泉国人衆を指揮。
鈴木重興……雑賀衆の旗頭。土橋種興を補佐。
津田算正……根来衆の旗頭。土橋種興を補佐。
筒井順政……大和国人衆の旗頭でこれを指揮。
澤房満……宇陀三将の一人。
秋山教家……宇陀三将の一人。
芳野民部大輔……宇陀三将の一人。

1562年5月19日の情勢[2]
当日の天候は前日夜半より驟雨であったとの史料[3]がある。三好方は久米田の戦いで雑賀衆および根来衆の鉄砲で三好義賢を失ったことから、雨を待っていたと伝わる[4]。

日時 気象 三好方の動静 畠山方の動静
早暁 小雨 先鋒、三好政康の部隊が畠山氏の前衛遊軍の
紀州国人衆の周参見、玉置、野長瀬の部隊に
攻勢をかける。 譜代の諸部隊および安見宗房の軍勢が救援し激闘。
その後、両軍一時後退。
明け方 小康 山側から順に三好長逸、松山新助、池田長正、
伊丹親興の軍勢が前進。 山側から順に湯川直光以下湯川衆、
土橋種興以下雑賀衆が迎撃。
朝 曇 安宅冬康、三好康長、三好盛政らの一族、
一門衆が加勢。 大和衆の澤房満、秋山教家のほか
片岡、十市、井戸らと筒井氏の一部が加勢。
昼前 雨 讃岐衆の十河存保以下香西、安富、羽床、香川、
寒川、六車の諸部隊が西より迂回し、攻勢をかける。
河内衆の安見宗房、甲斐庄正治、恩智親継らが迎撃。
昼頃 風雨 阿波衆の篠原長房以下小笠原、一宮、大西の諸部隊が
讃岐衆に加勢。 後衛の紀州の堀内氏虎および譜代の諸部隊が加勢し、総力戦となる。
昼過ぎ 靄 松永久秀、有馬、内藤が攻勢に参加。
日中 曇 三好義興の部隊が攻勢に参加。 湯川直光が討ち死に。湯川衆が総崩れ。
続いて雑賀衆、大和衆が敗走し、多くが討ち死に。
夕方 晴 大攻勢にうつる。 河内衆、譜代衆も総崩れとなり本陣崩壊。譜代衆の多くが討ち死に。
日没 不明 追撃を中止。
夜 不明 菩提寺山の畠山方の残軍を追討。

戦後の経過
三好方は勢いにまかせて大和国へ侵入し、畠山氏の与党を追討していった。また、六角氏も畠山氏の敗北を知って近江国へ退却し、講和を図った。

月日 状況
5月21日 三好方、大和へ侵攻し、筒井、十市、片岡などの諸部落を焼く。
5月24日 三好方、再度、菩提寺山を攻める。
5月25日 三好方、矢田寺および平群、生駒へ侵攻し、諸部落を焼く。
6月2日 六角承禎、三好長慶に降伏し、講和。
6月26日 三好長慶、河内国平定のため出兵。
8月 畠山方の安見宗房、岸和田城を攻撃。

旧勢力の畠山氏の勢力が瓦解し、六角氏も軍門に降ったため、三好氏の勢力が大きくなり、畿内に三好氏に対抗する勢力はなくなり、この後、大和国、河内国が三好氏の支配下となり、紀伊国の北部も三好氏の勢力が及ぶようになった。

参加した諸将
三好方
地位 氏名
総大将 三好長慶(飯盛山城で指揮)
前線総大将 三好義興
一族・一門 安宅冬康・十河一存・三好長逸・三好政康・三好康長・三好盛政・三好弓介・岩成友通ら
譜代・旗本 松山新介・松永久秀・内藤宗勝(松永長頼)・伊沢大和守ら
摂津国人衆 池田長正・伊丹親興・有馬村秀・塩川長満・茨木重親・高山重房・能勢頼幸・入江元秀・中川清村ら
讃岐国人衆 寒川元政・安富盛方・六車宗堪・羽床資載・香西元載・奈良元信・由佐長盛ら
阿波国人衆 篠原長房・小笠原長政・一宮成祐・大西頼武・新開元実・海部友光ら
丹波国人衆 湯浅宗貞・金山春実ら
山城国人衆 椿井政吉ら
播磨国人衆 明石長行ら

畠山方
地位 氏名
総大将 畠山高政
譜代・旗本 丹下盛知・遊佐高清・吉益匡弼・田川純忠・走井盛秀・伴高兼・斎藤盛清・稲沢貞種・中条盛忠・神保春茂ら
湯川衆 湯川直光・目良高湛・野辺光房・貴志光宗・龍神正房・山本忠朝・安宅光定・小山隆光ら
雑賀衆 土橋種興・鈴木重興(鈴木重意?)ら
根来衆 津田算正ら
湯浅衆 湯浅宗政・保田知宗ら
紀州国人衆 堀内氏虎・野長瀬盛秀、玉置直和、周参見氏長・愛洲綱俊・色川盛直ら
大和国人衆 筒井順政・井戸良弘・十市遠勝・箸尾高春・島清興・片岡春利・古市胤栄ら
宇陀三将 澤房満・秋山教家・芳野民部大輔
河内国人衆 安見宗房・甲斐庄正治・恩智親継ら
和泉国人衆 淡輪重昌・松浦肥前守ら
その他 三宅国村ら


2009年01月21日

女子ラクロス

女子では、木製や金属製のクロス、シャツ、巻きスカートがユニフォームとなる。以前はミニスカートとポロシャツが主流だった。ゴーリー以外は防具の類いを使用しないため、プレーヤーの体に対するチェックはルール違反となる。金属製のスパイクも着用が認められていない。また、フィールダー(ゴーリーを除くプレイヤーのこと)は全員マウスピース着用を義務付けられている。 昨今はボールスピードの向上により、アイガードを装着している選手も見受けられる。

1チームは12人。男子同様オフェンス時は8人、ディフェンス時はゴーリーを含め9人で守ることになる。

フィールドの大きさは横110m×縦60mが望ましいとされており、グラウンドによって多少の縮小が認められている。クリースは3mで、女子の場合はディフェンス選手も入ってはならない。クリース前方に半径11mの扇形と半径15mの半円を引き、半径11mの扇形の中でファールが起きた場合は、ファールを受けた選手がフリーな状態(フリーポジション)でシュートを打つ事の出来る処置がとられる。この事をフリーシュートと呼ぶ。

1試合は25分ハーフで、ハーフタイムが10分ある。

なお、上記はあくまでも日本のルールであり、世界各国でもそれぞれにルールが異なる。

例えば、オーストラリアの全国大会では1チーム10人・30分ハーフで行われ、フィールドの選手もヘルメット着用を認められている。

日本のラクロス
日本でも、明治時代から一部では知られていたスポーツだった。しかし、一般に広く知れ渡るようになったのはかなり遅く、1986年に慶應義塾大学の男子学生が日本で最初にラクロスチームを結成して以降である。その後マスコミ等に取り上げられ、爆発的に競技人口が伸び、2006年時点で約360チーム存在する。スポーツ競技の中では日本での普及の歴史がまだ浅いため、全国大会は他の競技のように社会人・一般/大学といった具合に明確に分かれてはいない。社会人・一般(クラブチーム)や大学チームの各地域リーグの代表が一堂に会して、男女それぞれ同じ時期に、全日本ラクロス選手権大会として行われている。

関連項目
国際女子ラクロス協会
世界ラクロス選手権
女子ラクロス・ワールドカップ
山田幸代
河野明子
前田有紀
佐々木明子
小西美穂
中丸徹
キュアブラック
ドラッグストア・ガール
少林少女
暴風ガールズファイト
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外部リンク
日本ラクロス協会
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